ゴッホのジャポニスム(3) - 日本文化への憧憬 - 浮世絵ぎゃらりぃ
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ゴッホのジャポニスム(3) - 日本文化への憧憬

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ゴッホの書簡(3)

ファン・ゴッホから妹ヴィル宛ての手紙(1888年9月9日と16日)

テオは君に日本版画をあげたと手紙に書いてきた。それはたしかに現に色鮮やかな明るい絵画がどういう方向をとったか、それを理解できるようになる実際的方法だ。
僕の方はここでは日本の作品は必要ない。というのも、僕はここで日本にいるのだ、といつもそう思っているからだ。
(中略)
僕はまた習作として新しい自画像を描いたが、この絵では僕は日本人のように見える。
(中略)
君も今ではふだん日本の作品を眺めていれば、自分でも、花束を作ったり、花の仕事をしたりするのがなおさら好きになるのがわかるだろう。

ゴッホのジャポニスムが他の印象派画家のそれと最も異なる点は、ただ単に浮世絵の技術を学ぼうとしただけでなく、その背景にある日本人の精神的な世界への興味と憧憬が強いことです。
次のテオ宛の手紙にもそうした傾向が読み取れます。

ファン・ゴッホから弟テオ宛ての手紙(1888年9月24日)

ビングの複製図版のなかで、僕は『一茎の草』と『ナデシコ』の素描、そして北斎がすばらしいと思う。しかし、人が何と言おうと、平板な色調で彩色された、ごく普通のクレポン(縮緬絵)が僕にとってはリュベンスやヴェロネーゼと同じ理由ですばらしい。
(中略)
日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。
彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。
違う。
彼が研究するのはたった一茎の草だ。
しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物を素描させることとなる。
彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりに短い。
そう、これこそ--かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。
もっと大いに陽気になり、もっと幸福になり、因襲の世界でのわれわれの教育や仕事に逆らって自分たちを自然へと立ち返らせることをせずに、日本の芸術を研究することはできないように思われる。

この手紙にはまさにゴッホにとってのジャポニスムが凝縮されていると思います。
芸術とは何か。芸術を通して人は何を学ぶべきなのか。
浮世絵を単純に一枚の絵として見るのではなく、その背景に広がる日本人の自然観、世界観を深く洞察することで、「芸術とは何か(どうあるべきか)」という根本的なテーマについてのひとつの回答を示してくれるものなのだと。まさにそれこそが日本芸術を研究することの真の目的であり、芸術が「人生を豊かに、幸せにしてくれる」ものであることの実証でもある、と考えているわけです。

また彼は、日本人の自然に対する観察力についても触れていますが、これはゴッホだけでなく印象派画家の多くが同様な感想を述べていて、こうした日本人の自然観の影響を受けて、それまで草木などに目を向けなかった印象派画家たちもアトリエから屋外に出て木や花などを描くようになったのです。
いまでこそ屋外で自然や風景をスケッチするのは不思議でもなんでもない行為ですが、ヨーロッパ人にとってはたいへんなカルチャーショックだったわけです。

他にも面白いのは、印象派画家たちが、北斎などがカエルや昆虫などの小動物のデッサンを描いていることにとても驚いていることです。
なぜ彼らが驚いたのかというと、彼ら西洋人にとっては絵画の描写対象になる動物といえば、馬などの大型動物だけであって、小型の動物や昆虫などは「下等なもの」として描く興味対象にはならない、という考え方なのです。
だから、虫や蝶などが描かれた浮世絵を見ると「なんと!昆虫を描いているぞ!」と、びっくりするのだそうです。
われわれ日本人の、大小問わず万物には等しく魂が宿っている(非生物にまで)とする考え方からすると、なんだか自然界に勝手に等級や序列をつけているみたいで不思議な感じですよね。
これが宗教的なものなのか、あるいは文化的なものに起因するものなのかはよく分かりませんが。

よく日本人の捕鯨文化が海外で槍玉に挙げられますが、彼ら西洋人は基本的に大型動物に対しては畏敬の念を表し、小形動物などは一段低く見下す文化が根底にあるように思われます。
どうもこのあたりは日本人の我々からすると違和感を感じるというか、自然界に対する意識の根本的なズレみたいなものを感じますね。

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