ゴッホのジャポニスム(4) - 晩年そして死後 - 浮世絵ぎゃらりぃ
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ゴッホのジャポニスム(4) - 晩年そして死後

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ゴッホの書簡(4)

ファン・ゴッホからゴーギャンへの手紙(1888年10月3日)

僕は全体が灰白色の自画像を描いた。この灰白色はヴェロネーズグリーンと鉛丹オレンジをまぜて得られたもので、淡いヴェロネーズグリーンの背景の上にあって赤褐色の服とすっかり調和している。
しかし、僕もまた自分の個性を誇張して、むしろ永遠の仏陀の素朴な崇拝者である坊主の特徴を追い求めた。
(中略)
ベルナールの話によると、彼とモレとラヴァルともう一人が僕と絵の交換をしたいとのこと。
僕は実際芸術家たちの間での交換方式を原則上大いに支持する立場だ。というのも、これが日本の画家たちの生活のなかで重要な位置を占めていることを知っているからだ。

このとき描かれたのがこの自画像で、「ムスメ」の時に触れたピエール・ロティの「お菊さん」の挿絵に触発されたものです。

ゴッホ自画像

ゴッホは、日本の浮世絵師たちが互いの作品に刺激を受けたり、共同制作していることを知って、われわれ印象派も日本のアーティストたちのように共同制作をやるべきだと、友人のゴーギャンをアルルに誘います。
この手紙からしばらく経った10月23日、ゴーギャンはゴッホの誘いに応え、南仏を訪れて共同生活を始めます。しかし長くは続かず、2ヵ月後、お互いの意見の衝突から、ゴッホは発作的に自分の耳を切り落とすという事件を起こし、限界を感じたゴーギャンはゴッホの元を去ってしまいます。
事件の後、ゴッホは耳に包帯を巻いた自画像を描いています。(詳しくはゴッホの浮世絵コレクションのコーナーで)
このゴーギャンとの決裂あたりからゴッホの人生の歯車が狂い始めます。
しだいに妄想や幻聴に苦しめられるようになり、翌1889年2月には精神病院に収容されてしまうのです。
あれだけ夢中だった日本のことも手紙の文面から消え、かわって自身の病状のことばかり綴られるようになります。

1890年5月には精神病院を退院し、パリに住む弟テオを尋ねるまでに回復するのですが、残念なことに同年7月、拳銃自殺という悲惨な最期で人生の幕を閉じます。
そして兄ゴッホを陰から支え続けた弟テオも、まるで兄の後を追うかのように、その半年後に亡くなってしまうのです。

*

ゴッホたち兄弟の死後、意外な活躍を見せたのが、テオの妻のヨーでした。
ゴッホに続いて最愛の夫を失うという悲劇に見舞われながらも、決してくじけることなく、もしテオが生きていればおそらく彼がやったであろうことを、ヨーはひとりその遺志を継ぐかのように尽力しました。
彼らの手紙やゴッホの作品を管理しつつ、書簡集を出版したり展覧会を開いたりして精力的に世間に紹介して回ったのです。
こうした彼女の努力の積み重ねにより、ゴッホの評価は次第に高まっていきました。
おそらく、ヨーのこの努力がなければ、ゴッホは今日これほど世界に知られてはいなかったでしょう。
数多ある「無名の貧乏画家」として、世間からすぐに忘れ去られていたのではないかと思います。

花咲くアーモンドの枝

ゴッホが自殺する半年ほど前、テオとヨーに息子が誕生していました。ゴッホはわがことのように喜び、彼らの子供のために「花咲くアーモンドの枝」を描きます。
テオ夫妻は、生まれた息子にフィンセントと名づけました。そう、ゴッホと同じフィンセントの名を、テオとヨーは誇りを持って息子に名づけたのです。
たとえ世間がゴッホを認めなくても、彼ら夫婦だけはゴッホを心から支持し、応援しつづけたのです。
その支援は、ゴッホとテオが世を去った後も、遺志を継いだヨーと息子によって諦めることなく続けられました。

やがてその努力は実を結びます。

1973年、ゴッホの作品や収集した浮世絵を収蔵する目的で、オランダ・アムステルダムに「ゴッホ美術館」が建設されることになりました。
ゴッホ、テオ、ヨー、三人の夢の集大成ともいえるこの美術館設立にあたって、中心となって働きかけたのは、当時80歳を過ぎた、テオとヨーの息子である二代目フィンセントその人だったのです。

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