広重・東海道五十三次の謎(2) - 浮世絵ぎゃらりぃ
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広重・東海道五十三次の謎(2)

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東海道行脚の根拠

さて、そもそも広重が東海道を旅したとされる根拠は何だったのでしょう?まずはそこから見ていきましょう。

実際に東海道の絵を描いている以上、スケッチ旅行したのは当然だろう、と誰もが思うところですが、しかし既に述べましたとおり、記録としては広重の東海道旅行を裏付けるものは一切存在していません。
唯一、東海道を旅した証拠とされてきたのが、この「藤川・棒鼻ノ図」です。

藤川・棒鼻ノ図

東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図/歌川広重/天保6年(1835)頃/当サイト所蔵

ここに描かれているのは、幕府の「八朔御馬進献」という行事の様子で、この図を根拠に、「広重は八朔御馬進献に同行して東海道を歩いたのだ」とされてきました。そして最初にこの説を示したのが、広重研究の先駆者でもある小島烏水です。
大正3年の「浮世絵と風景画」で、

御馬進献は、馬屋の中の、駒を撰ばれ、八月朔日に、在京の大番頭を御使にて、内裏へまゐらせらるゝ事なり、これ等は、古の駒牽の名残にやさふらはん

と、『幕府年中行事歌合』の八朔御馬進献の一文を紹介するとともに、広重が天保元年、この八朔の御馬進献に同行したいと内々に申し出たことが黙許され、役人のお供をして東海道を京に上ったことを説明しています。

もっとも、小島烏水がこのように説明したことには伏線があって、以前から世間には三世広重が語ったといわれる『天保初年、広重が幕府の八朔御馬進献に供奉して京都に上った』という伝聞話が伝わっていて、小島烏水の説は基本的にこの三世広重の話をベースにしたものと考えられます。 しかしそもそもこの三世広重の話自体、酒屋の主人の伝聞を元にしたという非常に信憑性に欠けるもので、既に明治27年、飯島虚心によってこの説は「甚だ疑うべし」と一度否定されています。
それがなぜか大正時代になって小島烏水の手でまた事実であるかのごとく取り上げられてしまったことが、今日の「藤川・御馬進献説」の出発点になっていると考えられます。
ただし、その小島烏水自身が同じ「浮世絵と風景画」のなかで

幕府の命を奉じて、写生の役目を承はって往ったとも、伝へられてゐるが、公式に作画を命ずるとすれば、格式のある御抱絵師もあることで、市井無名の町絵師に、内命を下すことは、有り得ないことだらうと、私にはおもはれる。

と述べているとおり、これはあくまで広重自身の希望により同行が実現したもので、「幕府の命によって同行した」という説には同調しかねる、というスタンスであったことを明言しています。

実際、幕府には狩野派、土佐派といった立派な御用絵師がいましたから、一介の町絵師にすぎない(しかも当時はほとんど無名)広重を、写生目的で幕府の行事に同行させるなどということは、常識的に考えてまずありえないといえます。

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