広重・東海道五十三次の謎(4) - 浮世絵ぎゃらりぃ
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広重・東海道五十三次の謎(4)

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広重には江戸を離れられない理由があった

では、御馬進献でもなく大名行列でもない、つまり幕府の行事などに同行したのではなく、単独で旅をしたと考えるのはどうでしょう?
当時、箱根の関所までの往来は比較的自由でしたが、関所を越えるとなると通行手形が必要となります。
手形の発行にはきちんとした理由が必要でしたが、写生旅行では不可として、無難にお伊勢参りとでもしておけば旅行自体は十分可能だったと思います。
問題は、下級役人の広重にそんな経済的余裕があったかどうかです。
それと旅の時期。
従来言われているように天保初年頃に旅したとみるなら、これはまず時期的に不可能です。
なぜなら、広重には天保三年まで、江戸を離れられない理由があったからです。

広重は13歳の時に家業を継いで三十俵二人扶持の定火消同心となりました。
江戸の消防組織には大名火消、定火消、町火消の三種類がありますが、広重はそのうちの定火消同心という下級役人です。
定火消は明暦の大火の翌年(1658)に設けられた組織で、頭が一人、与力六騎、同心三十人、役中間三十人の編成で江戸城の周縁十ヶ所にある火消屋敷に住まい、火事に備えて常駐するのが任務でした。
つまり広重は、普段は火消屋敷に常駐して定火消の役目を務めながら、副業として絵も描いていたわけです。(おそらくは経済的な理由から) そして天保三年の春、37歳のときに家業を嫡子の仲次郎に譲って火消しを引退し、以降は画業に専念することになります。

さて、東海道は江戸から京都まで片道十五日、往復で約一ヶ月。
定火消という、江戸に常駐していなければならない立場の広重が、はたして一ヶ月もの間、特別な理由もなく江戸を離れることが許されたかというと、おそらくそれは無理でしょう。
したがって広重が東海道を自由に旅行できたのは、定火消を引退した天保三年の春以降ということになります。

ところが通説では、東海道五十三次は天保四年の出版で、そこから逆算して広重は天保初年ごろに東海道を旅行した、とされているのです。(でないと天保四年の出版に間に合わない)
しかし天保初年頃というと、広重はまだ定火消同心の立場にあり、勝手に江戸を離れることができない状況にあったわけです。
幕府の命を受けての旅行ならともかく、私的な理由での旅行はまず不可能と考えられ、これも今日、広重の東海道行脚を疑問視する理由のひとつとされています。

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